ラッパ吹きが最年長のラッパーとなった日

坂上 弘さん(73)
 大正12年生まれの坂上弘さんは、音楽という夢にまみれて生きてきた73歳である。すでに物心のついた頃には、貴重なラジオから忍び寄るオペラという熱唱ドラマに魅了された。それが音楽という華美な精神世界への入り口となった。今ではとても聴くに耐えないような音質の悪いラジオにかじりつき、断片的に流れ出るメロディをむさぼり聴いていたと坂上さんはいう。現在とは大違いで、直接生活の糧に結びつかない遠い存在だった音楽などは、文学の世界と並んで極めて贅沢で、生き様として選択のしにくい高尚で趣味的な高嶺の存在でもあった。それだけに憧れて、その当時は心を包み込む強烈な音楽が、周知として唯一のエンターテイメントだったのである。
 そんな高校時代の坂上さんにとって、そこに存在していたラッパ隊への入隊は極自然だった。そこで運命のトランペットという、心の叫びを絞り出すような音色をかもす楽器に出会うことになった。トランペットという名前すら近隣の誰もが知らない。まさにピアノのような楽器などは金持ちの高級玩具と思われていた時代である。
 そのトランペットが自分の体の一部分になりかけた昭和15年、進軍ラッパの鳴り響く太平洋戦争勃発の年に満州へ渡った。満州新京炭鉱株式会社という採炭会社に入社したのである。暗い世相に反して幸いだったのは、その会社には珍しくもブラスバンド部があったことである。そこで仕事の合間には思う存分トランペットを吹くことができた。それだけでは飽きたらなく、その街にあった交響合唱団に入団した。そこで歌は最大で最高の楽器だと気づいた。一日中音楽に触れていたかった。だから夜はそこで歌を歌った。

思う存分トランペットが吹ける喜び
 ある日、日本から音楽の世界では最高峰に位置しておられた服部良一先生がおいでになり、なんと青春賛歌でもある「若人の歌」の合唱指揮をしてくれたのが嬉しくて、その先生の柔らかくも精緻な表情がとても印象的だった。それらの限られた音楽活動が、曇った日々の生活を導いていった。いつしか坂上さんは、音楽の導きに身をゆだねることにためらいはなくなっていた。
 誰もが同じ様な苦境という体験を味わい帰国した。そして昭和22年に燃えるような情熱を抱いて上京した。いろいろの運命的な出会いがあった。そしてあるジャズバンドのメンバーとなったのである。そのメンバーは素晴らしい面々である。バンドマスターでピアノ担当してたのは菊池滋弥さんという名アーティストだった。その弟子には守安祥太郎さんがいる。菊池さんは、「そして風が走りヌケテいった」という本でも紹介されている著名な方である。そしてウッドベースを華麗に演奏していたのは、数々の名アーティストを排出し、音楽を産業として育成してきた渡邊プロダクションの創始者である渡辺晋さん、今は亡きその人であった。そこでトランペットを奏でていたのが、この坂上弘さんなのである。
 仕事は米軍キャンプでのライブや全国に拡がり始めてきたキャバレーなどでの演奏であった。まさに大活躍の毎日であった。坂上さんのトランペットは舶来の音といわれたという。その当時の舶来という意味は本物であるという賛辞であった。その迫真な音色にファンは熱狂したらしい。拍手の波の中でアンコールの声が止まなかったという。「ピストンに触れる自分の手に、イメージの音が付いてくる感じがした。吹いているときは快感だったよ」と回想で吹きながら坂上さんは笑う。

「交通地獄」の
ジャケット写真
 その頃から坂上さんは、ジャズ専門音楽学校で専門のトランペットを教えだした。そこに今や国際的なトランペッターに成長した日野皓正さんが、坂上さんに弟子入りをして来たのである。音楽は人々を越えて成長してゆくものなのである。
 そんな名声を轟かせていた坂上さんは、ときおり音楽への動機はオペラだったことを思い出す。初心忘れるべからずで、忙しいステージの合間を縫ってはオペラの発声練習にも通った。本当はオペラで食べていきたかった。
 運命とは巨大な指揮者であると思う。さりげなく指揮棒の采配一つで音楽を変えてしまう。昭和45年だった。坂上さんは結核を患い音楽の断念を余儀なくされてしまった。トランペッターとしても歌手としても、その命である呼吸に関わる病気である。
 人生に最大の愛が二つあるとすれば、一つは人間に関わる愛であり、もう一つは生きてゆくための夢への愛である。その夢の一つを失うことは言語に絶することに違いない。坂上さんは多くを語ろうとしない。ひたすら青い空を見上げる毎日だったという。
 やがて長い療養の生活を経て健康を回復した後の坂上さんは、ある時はどうしようもない音楽への想いを引きずりながら、また、その気持ちを古いアルバムに留めながら普通に会社勤めをしたという。それはアーティストとしてのフロンティア精神の染み着いた坂上さんには、生かされているような苦渋の日々だったのだろう。やがてビデオ屋を経営したり、いろいろな仕事を転々と変え生活をさまよったという。
 それが、人生とは変転流転というように、ふたたび運命の指揮者は力強い指揮棒を振ったのである。今から10年前、坂上さんが73歳の時である。それはカラオケが出始めた頃であった。そしてカラオケ通いが始まったのだ。かつてはオペラ歌手を志したこともあるほどの坂上さんである。ついに漫画家の根本敬さんの主催する「プレゼンツガロ脱特殊歌謡祭ノド自慢大会」で見事優勝をしてしまった。その根本さんに見初められ、「是非ロックを」と勧められる。常に多様な音楽を隣りにしてきた。洋楽には慣れ親しんでいたので当然ロックのサウンドも知っていた。しかしオペラ仕込みの坂上さんの声が、求めるロックの音楽に合うものかと苦しんだものである。そして「ラップ」というサウンドに出会った。それは、ちょうどその頃の若い子たちに流行っている音楽だった。ラップならできるかもしれないと思た。そく流行りのラップCDを数枚購入した。全く訳の分からない英語の歌詞がある。それでもリズムからラップの魂を読みとり、かつて歌手を嘱望した昔からの夢を、この「ラップ」という異次元の音楽にかけてみようと思ったのである。それが2年前、70歳を越えてからである。





多くのテレビ番組に出演してきた坂上さん
 まさに人生70からの再出発であった。今ではテレビにも出るしライブもこなす。それらの大活躍で、いまや老若男女を問わずファンも100人を越える。歌だけでは飽きたらず作詞や作曲も自分で手掛ける。坂上さんの詩は、その全てが熱い血の流れる実体験がもとにある。それだけに奥の深い内容である。「もっともっと作品をつくりたい。そしてCDデビューもしたい。ナイトショーもやるつもりだ。若い子が聴いて楽しい気持ちになってもらって、そして元気に笑ってくれたらいいな」そういう坂上さんは、激しい青春のトランペットを吹く坂上さんではなく、温かい心を吹くアーティストであった。